「僕たちは歩いてゆく。」第十一話:夜の会話、プロレタリアってなんだろう

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「確かにそれは気持ち悪いですね」
おかしいのは、いくら歩いても疲れないし、眠くもならなかったことである。普段歩くという行為をしていないにも関わらず、けだるさもない。
夜の帳が落ちてきて、そろそろ宿を探そうかという時に、偶然バンガローを見つけたので、そこに泊まることにした。本当に泊まってもいいのだろうか、と思ったが、一之瀬さんがオーケイを出し、さらには看板に『ご自由にお使いください』と書かれていたので、甘えることにする。
ちなみに、浦町はそこでもサインペンを取り出し、『ご自由に』という文字の下に『バンガローを』と書き足した。
近くに焚き火のできる場所があったので、皆で火を囲みながら酒でも飲もう、という流れになったのである。
「でしょ! 池田氏も気持ち悪いって思うでしょ?」
「わタシも気持ち悪いって思うなー」
「うちもそう思う」
「私も思いますねー。ていうか、変だと思います!」
浦町、三上さん、ぱつ子、前島も話の輪に加わった。炎がゆらめくたびに、皆の表情が変わってみえるのが不思議だ。酒のせいなのか、それとも夜の紅のせいなのか。
横田さんは少し横になる、とバンガローで休んでいる。一之瀬さんと伊狩さんはなにやら別の会話が弾んでいるようだった。
「何が変かと言いますとですね」ぱつ子が頬を赤らめながら、言った。「何が気持ち悪いのか分からないという点がそもそも気持ち悪いと思います!」
「ああ、それもそうですねー。分かります、それ」
「そもそも、プロレタリアというものは、どうしてこう、成り立ったというかなんていうか、起こったんでしょうね。いったい何がしたかったんですか!」
「それは杏山先生に聞いてみないと分からないんじゃないか?」
「でも、わタシたちで考えるっていうのも大事だと思うなー」
浦町が火に手をかざしながら笑った。
「あのさ、これをさ、もしも先生に言ったら、下の階級の人が上の人に今の現状を伝えるっていうプロレタリアの表現方法と同じだと思わね?」
みんなの言葉を聞いて、胸のうちにあった言葉が、溢れるように出てくる。
「例えばさ、俺らって今、プロレタリアについて考えているでしょ。学んでいる立場であるってことだよ。それを先生に言う。つまり先生を世間一般とか普通とか上流階級の人であるとするならば、俺っていうのは下流なわけじゃん? 学んでいる立場なんだし。
で、プロレタリアについて考えている人じゃないとこの気持ち悪さって思いつかないでしょ。それを例えば先生に伝えるだけじゃなくて、他の人にそのことを知らせるわけさ。貼り紙じゃなくてもいいし、いろんな人がその情報を知ってくれればいい。ほら、これもプロレタリアだと思わない?」
「でもさ」三上さんが首をかしげながら呟いた。「それだけじゃプロレタリアっていうには半分くらいしか当てはまらんのとちゃう? そこに他の人が共感して、自分の意見を持つことが大切だって、先生言ってたよ」
「だったら、他の人が平岡くんの意見に賛同して、同じ気持ち悪さを感じたらいいわけだね。そしたらもしかしたらプロレタリアとして成り立つかもしれない」
前島が写真を撮る時のような、きりっとした目を爛々と輝かせながら、言った。
「でも、それってプロレタリアになるのかなあ。最初の話に戻るけれど、プロレタリアってそもそもなんだろう?」
皆がうーんと首を下におとす。
「結局はそこに行き着くんだよねえ」
浦町が珍しく落ち込んだような声をあげた。
「私が勉強して得たことはさ」一番はじめに三上さんが顔をあげた。「集団の中でこそ生まれる意見がさ、うーん、今までは一人じゃないと生きていけないとか思ったりもしたけれど、結局はいろんな人が影響して影響を受けているってことなんやと思う。それを知ったというか、なんていうか。うまく言葉にまとまらんのやけど」
「自分の意見というものはオリジナルであるように錯覚するけれど、結局は誰かの意見がそこにある、人というものは織物と同じである……ってやつ? 誰か他の先生が言ってたよね」
前島が補足するように、ぼそぼそと呟いた。その声は火に燃え、熱となって、この世界に溶けていった。
「つまりプロレタリアというものは、まず集団を考えなくちゃいけないってことか?」
三上さんの意見を、自分なりの言葉でまとめてみるも、それだけじゃないような気がした。
「本質を考えるよりもさ、今プロレタリアについて考えることの意義について考えたらいいんじゃない?」
浦町が立ち上がって、言った。浦町談議、はじまりはじまり。
「『プロレタリアにおいて集団が大事だ』というのは、大事ではなくて集団ではないと決してできなかったものなのだから、その時点で間違っているんじゃないかな。集団というものがキーワードであると同時に、集団だからこそ生まれるものを表現しているんだし。
これからは、プロレタリア文学について言うよ。作者不明の作品って結構多いんだ。プロレタリア文学って個人じゃないわけだよ。
プロレタリア文学というのはみんなも知っているとおり、当時の社会に対して――斜に構えているという意味ではもちろんなくて――素直に共感できない人たちの文学なんだよ。
じゃあ当時の社会ってどういうものだったんだろう。いろいろあるけれど、ここでは二点、取り上げてみるよ。
一つ目は、『個人』というものが浸透しはじめてきたというところ。平岡には前にも話したことがあるけれど、同じ文学という形態でも個人というものがもてはやされるようになってきたんだ。
日本の文学っていうのは集団があったんだ。例えば、連歌って知ってる? 座の文学っていうのかな。和歌の形式でさ、上の句を誰かが作って、それをうけて別の人が下の句を作るってやつだよ。まるでリレー小説みたいだよね。
ところが、そういう流れがじょじょに個人へと推移していく。人は文学をある意味商売にしてしまったんだよね。著作権というものは金に結びつくようになったし。文学が個人のものになってしまったというわけさ」
気がついたら浦町談義がはじまっていて、俺たちはみんな浦町のその身振り手振りを交えた話に聞き入っていた。
「二つ目は、当時の風潮だね。時の政府の方針って、なんだったか覚えてる? 『富国強兵』だよ。国を豊かにして、強い軍隊を持つことが近代化とされたんだよね。
でもこれって、ある一定の条件の人にしか恩恵を受けないっていうか伝わらないと思わない?
例えば兵隊になるにしても、健康な人じゃないとなれない。軍役につけない人は非国民として差別を受ける。
また、国が富んで一番喜ぶのは政府の高官とか、教育を受けれるような人だよね。当時、教育を受けれるのは富裕層だったから、労働者じゃないんだ。学校にいかせるなら畑仕事を手伝わせる、みたいな時代だったんだよ。
こういう点から、受け入れられない人たちっていうのも出てきたんだ。国民全員のためのスローガンじゃないってことだからね」
うんうんと頷いてしまう。これが浦町の魅力であり、能力でもある。炎さえもが気にならない。
「こういう現状を受け入れられない人たちの文学、つまりプロレタリア文学の特徴ってどういうものなんだろう。今からいくつか挙げてみるね。さっき言った二つの当時の社会背景を踏まえていうよ。
一つ目に関して。島崎藤村とかの私小説を『自我私小説』と定義する場合、それに対立するのはおそらく『壁小説』だと思う。『個人』の文学が完成期を迎えつつあるその時期に、『集団』からの文学の再定義をしようとしたんじゃないかな。
『集団』がでてくることによって、どういうファクターが見つかるだろう。一つは助け合い、相互扶助の考えだと私は思うんだ。大学生協と同じ理念だよ。つまり自分、『個人』だけじゃなくて、周りも一緒に幸せになろう、一丸となって取り組もうという姿勢が見えてくるんじゃないかな。だから自然と『集団』を描くシーンもよく出てくると思うし。
二つ目に関して。当時の社会に対して反発するのなら、当時のスローガンとは逆のことをすればいい。『富国強兵』に対立するとしたら、何かな。
それは『貧・病・争』なんだ。富もうとするなら貧しくあれ、健康がいいなら病に伏せよう、調和を目的とするなら争ってやる。これを実践することによって自分の意見を主張したんだよ。
例えば太宰や芥川なんかを例にするといいかもしれない。太宰が嫌ったのは? それは志賀直哉だね。実際に批判もしているし。
志賀直哉のような書き手の私小説を『調和型私小説』とすると、太宰たちのは『破滅型私小説』とすることができるんだ。なぜかというのは、さっき言った『貧・病・争』があるからね。
みんなお金持ちじゃないよね。実際に結核になったり病気になったよね。妻をもらった人だって、家の中のごたごたは絶えなかったよね。そこから、小説が生まれるって考えたんだよ。
当時の社会に順応できない人たちの叫びとかは、やっぱり同じ視線にならないと理解ができないし、共感できないし、そもそも考えつかないかもしれない。梶井基次郎だったかな、『結核にならないと結核を患っている人の気持ちは分からない』と言って結核になったのは。だからこそ彼の作品の『檸檬』が有名になったんだよ。あの小説の面白いところは本屋に檸檬を置いてそれが爆発するかもしれないって思いつくところにあるんじゃない。結核になって軍隊に入れない人が、檸檬を手榴弾に見立てて本屋を爆破してやろうと考えているところが面白いんだよ。ね、同じ視線にたっているでしょ?
じゃあプロレタリア文学について考えた時、今の社会に生きる私たちは、どういう風に活用できるだろう。
それは、例えばさっき咲菜ちゃんが言ったような、自分だけじゃない、集団の中で生きているんだということを自覚することが、まず重要なんじゃないかな」
そこで浦町が一息つく。一筋の汗が、こめかみから頬にかけて流れていた。耳まで赤くなっている。心地よい静けさが佇んでいた。
「……それさ」沈黙を破ったのは、伊狩さんだった。「自分のことを自覚するってのも入らないかな?」
「例えばどんなん?」
首を伊狩さんの方に向けたら、ぐきっと鳴った。少し、痛かった。
「私はね、自分のことをプロレタリアだと思ってるの。地方出身だから、大学生になってから東京に出てきたんだよ。それから、あまり大きな声で話せないけど、実は留年しかかっているんだよ。ちょっとやばいって感じ。
さらに言うと、私は別に将来出世したわけじゃないし、大金持ちになりたいという夢もあまりない。株とかやればもちろん可能だけど、やっぱり地方出身者はそういう気持ちがどこかしらにあると思うんだ。これってある意味当時の労働者みたいでしょ。生まれというものが、将来の役職とかを決めちゃうわけだから。労働者の子供なら労働者、知識階級だったら役人、みたいなね。
そういう自分についてきちんと自覚するというのは、とても大事なんじゃないかな。もちろんこれだけじゃプロレタリアとは言えないかもしれないけれど、プロレタリアについて考える時にはなくてはならないと思うんだよね」
ごめんねもしかしたら変なことを言っちゃったかもしれない、と伊狩さんは照れくさそうに笑った。
今の浦町たちの意見を、少し整理してみよう。つまりプロレタリア文学というのは、当時の社会に順応できない人たちの叫びを、その人たちの目線で書いた文学である。
そして、それを出版し、社会に対して疑問を投げかけた。政府の掲げたスローガンをそのまま行えない人の存在について知ってもらおうとした。これがプロレタリア文学が結果としてもたらしたことである。
気持ち悪さがいくらか解消できた。少なくとも『プロレタリア文学とは何か』『プロレタリア文学がしようとしたことは何か』という疑問については理解できたと思う。
プロレタリアの本質である『みんなが、同じ意見を共有し、疑問に思う』という基盤の上に成り立っている、というのが証明されたというわけだ。
プロレタリア文学がうまく機能したかというとそうでもないのは皮肉である。小林多喜二や鶴彬が虐殺されたことからも分かるように、やはりある意味反社会的だったため、時の政権によって淘汰されようとした。
ただしだからといって、無かったことにするわけにはいかない。やはりプロレタリア文学の流れができたということは、当時の社会を振り返る上でも重要であり、無視できないことである。
「なんていうか」どっと疲れが浮き出したら、情けない声になってしまった。「こんなところでプロレタリアについてここまで真剣に考えるとは思わなかったよ」
みんながいなかったら、自分の中での疑問に留まっていたかもしれない。集団は大事だな、と改めて思った。
「そういえば、プロレタリア文学については分かったけど、プロレタリアについてはまだ分かっていないんとちゃう?」
三上さんが炎を酒で潤んだ瞳に照らしながら、笑った。
「三上さん、でもプロレタリアについて考えることは、今の私たちでは難しいのではないでしょうか」
「はいはい! それならプロレタリアの考えについて議論すればいいと思います!」
カチューシャを定位置に戻しながら、ぱつ子が叫ぶように言った。
「ぱっつん、それはどういうこと?」
伊狩さんが目を細めながら聞いた。炎が顔全体でゆらめいている。
「例えばですね、皆さんきっと学食でご飯を食べたことがあると思うんですよね。で、それってつまり生協を利用しているわけじゃないですか。
さっきも浦町さんの話にでましたけど、生協って、ものすんごくプロレタリアの考えで成り立っていると思いませんか?
例えば、生協は出資金を払った組合員、大学生協ならまあたぶん大学生のことですけれど、彼らの生活向上を主な目的として活動しているわけじゃないですか。つまり組合員を助けているってことです。
でもこれは決して一方的であるというわけではもちろんなくて、やっぱりどこか組合員と助け合っているわけですね。
一言カードって皆さん知っていますか。組合員が生協に対して意見を言ったり要求したりすることのできるカードのことなんですよ。これのどこがすごいのかというと、生協で働いている人たちだけがそれを読むんじゃなくて、そのカードに返信して貼りだすところなんですよ。つまり一人からもらった意見やそれに対する回答を、個人宛じゃなくて組合員全員に対して回答しているわけなんですね。こんなことをしているのは私の知る限り生協くらいしかやっていないんですよ。
またですね、これは他にどういうことなのかというと、生協で働く人と組合員が同じ目線に立って、同じ目的を共有して、お互いに良くなろうとしている、ということなんですよ。お店の人と客、という形ではなくて、私も貴方も仲間なんですよ、一緒に良くなりましょうって思わなければ、一言カードなんて生まれなかったんです。単純に、店に対して意見があるなら言えって態度だったら、一言カードじゃなくて意見投書にすればいいし、掲示なんてしなくてもいいんですから。
ほら、これってプロレタリアの考えそのままですよね。どんな立場の人も生協を通じて同じ意見を共有して向上するという、えっと本質にも適っていると思います!
プロレタリアについて考えても、たぶん今の私たちには深く理解はできないと思うんですよね。実際皆さん混乱している部分も多いと思います。平岡さんがさっき気持ち悪いって言ってたのもその一つだと思いますし。
だったらこういう現代社会における例を挙げて、それがどうプロレタリアに繋がっているのかを考える方が、やりやすいと思います。それで不思議があったら杏山先生に聞けばいいと思いますしね」
「なるほど、なるほど」
なかなかやるな、ぱつ子。加奈子が一瞬、夜の女王のような気がして、怖くもありおかしくもあった。その無邪気な笑顔の奥にこんなにも思慮深いところがあろうとは、いったい誰が思っただろう。浦町を見ても、ライバル出現といった表情で、しかし険しいものではなく、穏やかな顔つきをしていた。
「じゃあ他にはどんな例があるんだ?」
「それは、えっと、そうですねえ……」
「あ、うちの意見ちょっと言ってもいい?」
三上さんがぱつ子の真似をしているのか、大きく手をあげながら言った。
「どんな意見ですか、三上さん?」
「えっと、今までの流れを聞いてて思ったんやけどな。赤提灯のある、なんやろ、疲れたサラリーマンが安酒を飲むためにくるような大衆居酒屋ってどこかプロレタリアな気がせんかなと思って」
「あー、新橋とかにありそうなやつですか。私、一回行ってみたいんですよね!」
「じゃあ市松、今度一緒に行きませんか? 私もちょうど一度行ってみたいと思っていたところなんですよね」
ぱつ子と池田氏がグーと拳をかざしあって、何かを確認しあった。
「で、三上さん、その続きは?」
伊狩さんがどこかそわそわしながら、言った。たぶん酒の話が絡みそうだから期待しているのではないかと予想する。みんなお酒好きだもんな。
「うんとね、ほら、ああいう店に来るサラリーマンって、他の人には言えない愚痴とか文句、つまり意見を酒の勢いに任せてぶちまけに来るやろ。上司の悪口とか、家族のこととか、給料のこととか。もしも、そういう人たちがその居酒屋の中で知らない人同士が議論したり、そこから何かストライキみたいな行動が起こったとしたら、これってプロレタリアちゃうかな?」
「あー、サロンみたいなイメージですね」
「それは確かにサラリーマンは労働者階級だし、もしもそういうことになったらプロレタリアなんだろうねえ。咲菜ちゃん、すごい!」
「いやぁん」
三上さんと浦町がひし、と抱き合う。ここでも発見、女の友情。
男一人しかいないこの環境が、ものすっごく寂しい気がした。
「あ、チャリティー活動とかってプロレタリアじゃねーのかな? 難民救済とか社会福祉とか、その内容は様々だけどさ、同じ目的で集まってお金を集めて救済しようとしているのって、生協に似ていると思うし」
「チャリティー活動は、ちょっと違うんとちゃう?」
「どうして?」
「だって施す人と施される人っていうのが明確に分かれとるし。んー、プロセスとしては同じ方法をとってるかもしれんけど、何かその先にあるものが違うと思う」
そう言われると、どこか違うのかもしれない。近いとは思うけれど。
「わタシも咲菜ちゃんに賛成だな。チャリティーはちょっと違うと思う」
「杏山先生はどう考えているんだろ」
「ぜひとも聞いてみたいですよね」
帰った後のお土産話が、また一つ増えた。
「ねえ、そういえばさ」沈黙を守っていた前島が口を開く。「『リリイシュシュのすべて』って映画があるじゃん。あれってプロレタリアとは違うのかな」
「あの映画が? どうしてそう思うんだ?」
「あ、それについてはうちが話すー」
三上さんが挙手をしながら叫んだ。そういえば、彼女は映画がとても好きだったはずだ。映画の話にとびついてこないわけがない。
「『リリイシュシュのすべて』は、岩井俊二監督が、インターネットの掲示板で勝手にはじめたサイトからはじまったんよ。そこに岩井俊二が、複数の別の名前で投稿して、リリイシュシュっていう架空の歌手のこととかエーテルのこととかを書いたんよ。それに関して同時に一般の人も投稿に参加できる感じにした。掲示板上で事件を起こしたりしたんだって。星野って登場人物を掲示板上のストーリーの中で刺したところで、一般の人の参加を打ち止めにしたはず……それでその後に映画の撮影をしたんとちゃうかったかなー。
掲示板に参加しているうちに、みんな現実なのか架空の話なのか分からなくなっちゃったらしいよ。リリイシュシュが本当にいるのかどうか、その事件が本当にあったことなのかどうか」
それはそれですごいと思う。でも、それだけリアルがそこに詰めこまれているということなのだろう。
「ああ、つまり」前島や三上さんが言いたいことがなんとなく分かった気がした。
要するに、その時の掲示板には、その時日本で生きていた人たちの意思のようなものが流れこんでいたのだ。その時の風潮、考え、人間性、そういったものがその流れの中で見つかり、ピックアップされ、それを岩井俊二が代弁するような形で『リリイシュシュのすべて』を作ったのだろう。
岩井俊二本人から聞いたわけではないので、確かなことは言えない。おそらくそこには岩井俊二本人の意識が多く含まれているはずだ。しかしその意識はまた掲示板に集まった流れの影響を少なからず受けているはずだ。受けていなくてはいけないのだ。それはリリイシュシュの公式ホームページにおいて、岩井俊二本人が『フィリア』として存在しているところからも頷ける。フィリア。映画中もでてきた登場人物が、現実の世界においても存在しているということには意味があるのではないかと思う。だからこそ、今日でも十四歳を描いた映画において秀作と言われ続けているのだ。若者を描く映画監督は、少なからずリリイシュシュのすべてを意識して制作を行なっている、と聞いたことがある。
「わタシ、あの映画最後まで見れなかったよ。唯一最後まで見れなかった映画だなー。久野がレイプされて髪の毛をすっごく短く切ったシーンで、もう映画館から走り去ってたよ」
「うち、リリイシュシュのすべてを見たら、この先、生きたらあかんって思ったよ。あんまりにも美しかったから、津田詩織が死ぬシーンが泣きたくなるくらいに美しかったから、だからやと思う。今でも鉄塔に憧れるもん」
呆然とした、と三上さんはおとすように呟いた。
「でも、これってよく考えたらプロレタリアとは関係ないね。だって、岩井俊二が統括しちゃっているから。匿名性がないよ」
「でもさ」気がつくと、口から言葉が紡がれていた。「その途中の過程は、やっぱりどこかプロレタリアの流れを汲んでいるんじゃないかな。だって、掲示板を岩井俊二が管理していない時間というのは必ずあるはずだし、その間に新しい書き込みがあったと思う。そこには統括も何もなく、その時生きた人たちの意識が詰まっていると思うんだ」
すべてがプロレタリアじゃないにしても、そこにはどこかプロレタリアに似ている部分があるんじゃないかと思う。
「ま、こう考えると」一度伸びをしてから、言った。「今の俺たちの生活って、結構プロレタリア的な考えって周りにあるんだな」
「もっとプロレタリア的な考えが広まればいいと思いますけれどね」
「反社会だって弾圧されちゃうかもよー?」
「その精神に気づいて抱き続けるのが大切だってことでいいんじゃね?」
「あ、平岡くん、うまくまとめたね」
火が小さくなっている。小学生の時、林間学校でキャンプファイヤーをやった夜を思い出した。組まれた木々たちが崩れ落ち、残るわずかな炎を、精一杯散らそうとしているその様に、大きな感動と小さな寂しさを覚えたのを、今でも鮮明に思い出せる。
この旅が終わる時、また同じような感情を抱くのだろうか。
夜はまだまだ長い。しばらくは眠ろうにも眠れなさそうな気がした。

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