■『HANEMAI MAGAZINE』通称『はねまが』は 【 読んでいただいているすべての人を応援しよう 】 というコンセプトのもと配信されているメールマガジンです。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● || <久遠寺蒼の呟き>  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ■こんにちは、久遠寺です。 本当は先週中に、 お送りしようと思っていたのですが、 予期せぬ予定が急に入ったりしたもので、 本日になってしまいました。 予定はあって無いようなものかも…… と思った今日この頃でした。 || <今回のトピック>  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ◎ずれた論点は、実は有効である :----------------------------------------------------------: ◎ずれた論点は、実は有効である :----------------------------------------------------------: ■今、はねまがを読まれている方に質問します。 貴方は今、一丁の拳銃を渡されました。 そして『一発で俺を殺せ』と言われ、 やむなく撃つことになりました。 貴方はどこを狙いますか? おそらく頭か心臓だと思います。 頭と心臓、どちらを狙いますか? ◇頭と答えた方に聞きます。 頭を撃つことは、 つまり脳死を意味します。 しかし体は無傷のまま。 動かそうと思えば動かせます。 脳死は人間の死なのでしょうか? ◇心臓と答えた方に聞きます。 心臓を撃つことは、 つまり肉体の死を意味します。 しかし脳は無傷のまま。 その人の知識や経験を生かそうとできるかもしれません。 それは、人間の死なのでしょうか? ■これは、『生と死から学ぶ』という本を著された、 鈴木康明先生の言葉です。 私たちの感覚から言えば、 どちらもつまり死になります。 ◇そこで先生は言いました。 『じゃあ、 脳が使えないという状態を死と言うならば、 精神病患者や植物人間の人も 死んでいるということなのか』 『じゃあ、 体が使えないという状態を死と言うならば、 全身麻痺の人も 死んでいるということなのか』 ◇いや違う、と誰もが思うでしょう。 私もそれはちょっとずれている、と考えました。 しかし、含蓄している意味は、 ある部分において同じなのです。 『生きているか死んでいるかではなくて、 その状態によって、 人は生きている、死んでいる、と表現する。 生命活動の有無だけが、 果たして生きている死んでいると 決定する基準なのだろうか』 先生はこう問い、 そして考えさせました。 ■実は、この論点が少しずれているな、 と思う考え方が、重要なのです。 皆さんは、 上のような考え方をしたことがありますか? ・精神病の人は生きている、 ・脳死の人は死んでいる、 と決めつけていませんか? 動いている、動いていないの違いだけで、 他の可能性を否定していませんか? 改めて考えると、 身近な現象などで、 一般的な考え方に囚われていることが、 多いような気がします。 ◇そして、潔癖症の人も、 また多いような気がします。 誰もが、 そんな考え方はおかしいよと嘲笑したり、 話がかみ合わないと忌み嫌うことを、 はじめから撥ね退けているように思います。 ◇もちろん、 それをコミュニケーションの場で、 口に出して主張するのはどうかと思います。 EQを疑ってしまいますよね。 ただ、 『考えること』まで否定する必要が、 果たしてあるのでしょうか? おそらく、 無いと思います。 ◇無駄と思える可能性や考え方をまず考えて、 その上で改めて消す、 というのは、 物事を考える上で役に立つと思います。 そんな時間は無いよ、 と思う人もいるでしょう。 しかし、 頭に思い浮かべて消すことに、 いったいどれほどの時間を要するでしょう。 といっても、時間は有限です。 ちょっとでいいのです。 たまにでいいのです。 時々でいいので、 そんな無駄に思えるような考えを、 少しだけ頭をよぎらせてください。 そうすると視野も広がりますし、 気づかなかった点も、 気づきやすくなるのではないでしょうか。 ずれた論点、ずれた考え方。 少し考えるだけで、 いろいろ世界が変わってくると思いますよ。
過去記事:はねまがVol.6
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