【長編小説】「僕たちは歩いてゆく。」第一話:秋の日

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俗に言われる『旅に馳せる思い』というものは、少なくとも一元化された観念ではなく、しかし個々に依るものではないという事実は、いかようにして形成され、数多の誤解と裏切りと快楽を生みだしてきたのだろう。
そのことについて考えてもきりがないし、難しい単語を並べただけの命題についてあれこれ思考を巡らせるくらいなら、おいしい肉じゃがのレシピについて考えた方がはるかに生産的である。分かってはいるのだが、しかしそれができない。分かっているのに、やってしまう。
でも、今ならまだ許されるのかもしれない。

――じゃあ、いったい誰に許されるというのだろう。それは神なのか、仏なのか、親なのか、それとも言葉として存在することのない絶対的な何か、なのか。そもそも、許されたいと思っているのだろうか。
こんなことを考えていると、テンションがある一定のハイにまで持ち上がり、それが眠りにつこうが酒を飲もうが、熱が冷めるまで終わらない。それがまんざらでもないのだからタチが悪い。

――本当に、タチが悪い。

「ねえ、ちょっとこれ読んでみてよ」
白いテーブルに置かれたバッグの中から、浦町かもめ(うらまち かもめ)が唐突に一冊の文庫本を取り出した。
ある晴れた秋の日のこと。ラウンジから見える窓の向こうの中庭では、じょじょに寂しさを覚えはじめた木々の葉の隙間から、霞んだ日ざしがそよぐように降り注いでいる。

「これねえ、すごく面白いんだ。きっと好きになると思うから」
そう言って、浦町はいつもより頬を紅潮させてはにかんだ。化粧が普段より若干濃い。今からデートなんだ、と言う時は必ず濃くしているから、きっと今夜も新宿や六本木で朝までコースなのだろう。真っ赤なシャツに黒いトレンチコートを羽織った彼女は、どこか艶っぽくもしゃきりとした雰囲気を漂わせている。ショートカットの黒髪が、おそらく彼女を大人びてみせているのだろう。
「今さら俺に太宰を読めってか」
浦町が取り出した本には、『斜陽』や『人間失格』といった太宰治の小説七篇が収録されていた。聞いたことないタイトルの小説も載っている。
「なんで今さら太宰なんだよ?」
「生協の本屋に行ったら、平積みにされて売ってたのをたまたま見つけたんだよー。懐かしくてつい買っちゃって。読んでたら、はまったんだよー」
いいんだよー、すごくいいんだよー、と浦町は目を細めた。妹が幼稚園生だった頃、戸棚に隠れていたお菓子を見つけてはしゃいでいた時のことを思い出した。そっくりだ。
「俺も太宰は読んだことあるよ。『走れメロス』が好きだな」
パラパラとめくると、行間のところどころにシャーペンで傍線がひいてあった。
『ママ! 僕を叱って下さい!』、『十年ほど前に、京橋のお店あてに、そのノートと写真の小包が送られて来て、差出し人は葉ちゃんにきまっているのですが』、『買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った』……ときどき、彼女の考えていることが分からなくなる時がある。
「わタシね、太宰好きなんだよ。中学の時とか、ずっと太宰ばっかり読んでたんだ。あ、痛い子だって言わないで。自分でも分かっているから」
「今さらじゃんか、そんなの」
そうだね、と浦町は屈託のない笑みを浮かべた。

「で、何を読めって? これ全部か?」
「オススメはね、『葉桜と魔笛』かな」
浦町が俺の手から本を奪い、『葉桜と魔笛』の扉ページを開いて返してくれた。
「へえ、十ページしかないのか。じゃあ六限中に読んじまうよ」
静かに本を閉じて、使い古した茶色の鞄の中にしまう。
「あーそうだ! 今日の六限って杏山先生の授業じゃん! いけない、いけない」
浦町は自分の髪を両手でくしゃ、と握りこんだ。
「もしかして忘れてたのか? 今日、発表じゃないよな?」
「うん、それは大丈夫だよ。わタシ、八回目の時だから」
浦町が頭から手を離す。髪が乱れて、さらに色っぽくなった。
「はー、わタシ、もう二回休んじゃったんだよねー。やばいな、どうしよう、そろそろ出席が足りなくなってきたぞ」
「代返しといてやろうか?」
「いやいや、いいよいいよ。きっと杏山先生のことだから、少し泣きつけばオーケイだと思うし」
「浦町は利巧だな」
「自惚れているがよいって? それ、最高の褒め言葉だよー」
本当に嬉しそうに浦町が笑ったので、俺もつられて笑ってしまった。二人の笑い声が、がらんとしたラウンジに響く。四限の時間だと言うのに、ラウンジに人がいないというのは珍しい。
「杏山先生って、どうしてあんなに優しいのかね? やっぱりプロレタリア文学を研究すると優しくなるんかな?」
「んー、どうだろ、それはやっぱり人柄じゃないかなー。ほら、先生ってどこか可愛いじゃん? 時々、きゅんってしちゃうんだよね、わタシ」
「萌えですか」
「萌えですね」
胸の前で両手を握り締めて、悦に入ったような、幸せそうな浦町の表情が、やっぱり女の子なんだなと実感させられる。しかし先生を可愛いと言うのはいかがなものか。女の子(もしかしたら浦町限定かもしれないが)の気持ちはよく分からない。

「プロレタリアと言えば、太宰も元々はプロレタリア文学者なんだよ。でも実は地主の息子だから、直接関わずに私小説って形をとったんだって。プロレタリアがダメになりはじめた頃に登場したんだけどねー」
「でた! 浦町談義」
浦町談義はたいてい難しい単語やら世界が登場するため、聞き手を選ぶところがあるのだが、俺はけっこう好きだったりもする。
ちなみに、この『浦町談義』は仲間内では結構有名な話で、『彼女が酔っ払うとビンタ祭りが始まる』のと同じくらい有名である。
「太宰の初小説は『晩年』なんだよ。えっと、一九三六年かな。小林多喜二やプロレタリア川柳の鶴彬が殺されたのもこれくらいの時期だから、プロレタリアの終わりの時期だね。自虐的な小説でしょ、『晩年』って。この作品で、少しだけプロレタリアと関わっているんだ。『なぜ、あんなに』って感じかな。それでプロレタリアのことを調べたんだと思う。
プロレタリアって『集団』がキーワードでしょ。だから一人では解決できないんだ。ところが、この頃の小説の風潮と言えば、とにかく『個人』に走る小説がたくさんだったんだよ。自我私小説と言ってもいい」
浦町がぐっと握りこぶしをつくる。
談義中の彼女はとても表情豊かで、笑ったり、しかめっ面をしたりと、話の内容が分からなくても見ているだけで面白い。
「破滅するしかなかったんだよ、太宰は。調和が許されなかったんだ。なぜなら、同じ私小説でも、例えば志賀直哉の『暗夜行路』のような個人のスーパーヒーローが出てくるような私小説に反発したかったから。しかも『暗夜行路』は、父との対立に留まってしまっている。ダメなんだよー、やっぱりそこから社会や国家に対する批判とかまで発展させないと! 面白くないじゃんやっぱり批判精神がたっぷりの小説が読んでて思わず笑っちゃったりするじゃんシニカルな文章や全力でネタに走る文章とかが私好みなんだよーなんていうかうずいちゃうんだよねジンジンってラーメンズじゃないよそりゃあそうでしょうこの大学の文学部に来た人ならみんなそうだと思うよ絶対心の中のどこかで思ってるから……」
そこで、浦町が目をかっ広げて、遠くの自動販売機を凝視した。彼女が自分の世界から現実に戻ってきた合図だ。

「あー、ごめん、また自分の世界に入っちゃったわー。いけないいけない、癖なんだよね」
「いいよ、全然。聞いてて興味深かったし。すっげー楽しかった」
「あはは。そう言ってくれると助かるかな」
浦町は照れくさそうに、自分の後頭部をくしゃくしゃと揉んだ。あんなに整っていた彼女の髪は、いまや無造作へアーもいいとこである。
「ま、そういうわけだから。後でどんなことやったか聞くよー」
「それはいいけどさ。メールしたらちゃんと返信しろよ?」
わかったわかった、と言いながら、浦町はバッグを肩にかけた。
「じゃ、またね」
「おう。来週かな?」
「そうかもしれないねー」
浦町が足早に立ち去ると、ラウンジには遠くから聞こえる車の音と、自動販売機の低いうなり声だけが響いていた。

「あ、そういえば浦町のや……」
きゃーと、突然、女性の叫び声が周りの音を一気に吹き飛ばした。
それは、襲われた時や怖いものと遭遇した時の悲鳴ではなく、アイドルに偶然出会った時やUFOキャッチャーに成功した時の喜びのものと同じ類のものであった。
誰かいるのか、と首をあげて浦町が去った方を見ると、入り口のところで浦町ともう一人、女子学生がぴょこぴょことお互いの手を握りしめながら跳ねていた。
「あれ、三上さんじゃん。珍しい……」
浦町と一緒にいたのは、三上咲菜(みかみ さきな)さん。今年度から一緒の演習をとっている仲間だった。だいたい近くの席に座って、教授が来るまで他愛ないおしゃべりをしたりしている。
おーいと、二人の方に手を振ると、二人はくるっとこちらを向いて、仲良く手を繋ぎながら小走りにやってきた。

「平岡くんだ。いつもこの時間、ここにいるの?」
「そんなことあるはずないじゃん。俺はいつだっていろんなことしているから。同じ時間に同じ場所にいるってことはまずないから」
「こら、わタシの咲菜ちゃんをいじめるな!」
ぽかりと、浦町の拳が俺の後頭部を直撃する。ずしりと重い。
「いったいな! 女の子が人を叩いちゃいけません!」
「ジェンダー差別、禁止ー」
「禁止ー」
横から三上さんも浦町に同調して繰り返すと、女性二人は何が面白いのか、ケタケタと大きく笑った。

「ま、いいけどさ。三上さんこそこんな時間に起きてるなんて珍しいじゃん。聞いた話によると、六限が始まる三十分前に起きるって聞いたけど」
「それは誇張しすぎだって! 起きる時は十ニ時にだって起きることできるんだから」
「それ、全然自慢じゃない」
「あぅ……」
がつんと、さっきよりも重い攻撃が、俺の後頭部を襲った。
「だーかーらー、浦町! 俺が馬鹿になったらどうするつもりだ!」
「もともと馬鹿なんだから、これ以上馬鹿になったって変わりはない!」
はい、確かに、すいません、ごめんなさい、生まれてきてごめんなさい。
「って、いちいち殴るから俺と三上さんの会話が進まないでしょ! 少し大人しくしてなさい」
「そう言われて、黙っている女に見える?」
はい、確かに、すいません、ごめんなさい、生まれてきてごめんなさい。
「えー、私、全然見えないよ。だってかもめちゃん、すっごく綺麗なんだもん」
「あーん、もう、いやん、咲菜ちゃん大好き!」
ひし、と抱き合う女性二人。羨ましいというか、眩しい。

「三上さん、今日の六限、でるでしょ?」
「うん、もちろんでるよ。今日から発表がはじまるもんね。私、来週発表だから、今日でないと小説を書けないよ」
俺たちがとっている演習は、みんなでリレー小説を書く、という内容である。授業が開始して四週目あたりから、毎週三名ずつ前週書かれたものをうけて、リレーしながら小説を書いていく演習だった。
「えらいなぁ。どこかの誰かさんとは、大違いだ」
と、浦町を横目で見る。
「わタシだって本当はでたいんだよ! 勘違いしちゃいけない」
浦町はどこか心外そうに口をとがらせた。
「ねえねえ、池田氏も今日、来るかな?」
どこかそわそわしながら、三上さんが笑う。
「来るんじゃね? 池田氏も先生好きっしょ、たしか」
「うーん、池田は最近バイトが忙しいみたいだから、もしかしたら来れないかもしれないよー」
と、浦町が神妙そうな顔をする。同類みつけた、という顔だ。
「結局のところ、六限になれば分かる、ってことだな」
うんうん、と三人で頷く。

「でもさー、わタシ思うんだけど、池田よりもまず先生が今日の授業来るかどうかを心配したらいいと思うな」
「あー、言われてみればそうだね」
「待って待って、それなんかおかしくね? 先生なんだから来るのが当たり前でしょ!」
「それが分からないのが、先生の魅力の一つなんだよー。平岡は分かってないな」
分からなくて結構です、はい。
演習は杏山先生が授業をしていて、突然休講にすることが何回もあるのだ。そのため、先生の授業にでるためだけに片道一時間半かけて大学にきた学生が涙目になる、というのもよく見る一シーンとなっている。
「杏山先生ってさ、なんであんなに病弱なんだろうね?」
「てか、大学教授ってかなり健康管理に疎いってイメージがあんだけど」
「いいじゃん、そこがまたきゅんとしちゃうんだよ」
恋する乙女は盲目、とはよく言ったものだ。悪い男だけは好きになるなよ、と言いたくなった。

「まあ、実際は本当に病気なのか分からないけどな」
きっと誰もが思うところではあるが、杏山先生は本当に細く、いつ倒れてもおかしくないような感じなので、誰もその疑問を口にしない。むしろ昨年の授業で講義中に倒れた、と聞いたことがある。
「いいなぁ、オトナになっても仮病使えるなんて……」
気づいたら、三上さんが羨ましそうな眼差しで、明後日の方向を見つめていた。
「いいよねぇ、わタシもそんなオトナになりたいよ」
別に仮病とは決まったわけじゃない、と言おうとすると、浦町も同じように目を輝かせていた。
「こらこら、お前ら、ピーターパン症候群か!」
「いいじゃん。ずっと子供のままでいい!」
「そうだそうだー」
この二人が同調すると、俺の手には絶対に負えない。

――ただ、確かに彼女たちの言い分も理解できる。俺自身、オトナになるという実感があまりよく分からない。
そもそも大人と子供を区別する意味はなんなのだろうか。オトナと大きい子供の差はどこにあるのだろうか。
普段当たり前のように、例えば子供料金大人料金と言ったりしていて違和感も疑問もかんじなかったけれど、ふとした瞬間に改めて考えると、その答えを求めてぐるぐると思考の螺旋に囚われてしまう。

「ま、今日から発表なんだし、きっと来るでしょ」話が複雑になりそうだったので、やめることにする。「そう信じてないと、今日発表する子もかわいそうだし」
「そうだね、そういうことにしておこっか」
三上さんはうんうんと頷きながら、両手を胸の前で組んだ。浦町はそんな三上さんの姿を見ながら幸せそうに微笑むと、何かに気づいたように肩をわずかに震えさせて、腕時計を鞄の中から取り出した。
「ああ! 咲菜ちゃんがいたからついつい話し込んじゃったけど、待ち合わせに遅れそうなことに気づいた!」
浦町は髪をくしゃくしゃにしながら『ごめん、もう行くね!』と早口でまくしたてて、全力ダッシュでラウンジから出て行った。
彼女のシルエットが遠くに小さくなって見えなくなると、静寂がどことなくラウンジの中に戻ってきたような気がした。
「そういえば、三上さんは何か用事でもあったの?」
「ううん、別に何もないよ。ただ早めに起きちゃったから、ぼーっと大学の中をうろついてみようかなって思って。そしたら、そこでかもめちゃんに出会ったって感じかな」
三上さんは、自分の髪の毛をくるくると指に絡めて遊び始めた。肩にかかるかかからないか程度に伸びたその黒髪は、一度も染めたことがないという。流行に疎いというわけではなく、その色が彼女に似合っていた。
浦町もそうだが、俺の周りには茶髪よりも黒髪の方が似合う人が、圧倒的に多い。俺自身も黒い髪の方が好きだ。
「なるほどね。もしアレだったら、六限まで時間潰さない? 学食にでも行こうよ」
「うん、別にいいよ」
からりとした空気が、秋の気配の他に、わずかな微笑をラウンジの中に響かせていた。

 

 


【第一話を終えて】

10年前に書いた作品の掲載をはじめてみました。
小説家になろう、に投稿しようかと思ったのですが、ライトな文体ではあるものの、個人的に特別な作品でもあるのでひっそりと自身のホームページで掲載からスタートしようかと。

なろうには別の作品で公開をしていきたいと思っておりますのでよろしくお願いします。

第一話だけでは、日常ものかと思われますが、この後の展開は第二話以降をお楽しみに。。。

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